(ウィキペディアより)
◆『ゴジラ』
1954年に公開された日本映画で、巨大怪獣ゴジラの東京襲来を描いたゴジラシリーズの第1作。
日本の怪獣映画の元祖である。
1954年11月3日、東宝系公開。観客動員数961万人。
併映は『仇討珍剣法』。上映時間は97分で、モノクロ。
○概要
水爆実験により海底に潜んでいた怪獣「ゴジラ」が首都・東京を襲撃するというゴジラ映画の記念すべき第1作。
主要襲撃地点は大戸島、東京(品川、銀座、霞ヶ関、勝鬨橋)。
この作品により特撮技術者・円谷英二の名が広く知れ渡った。
作曲家伊福部昭による音楽も極めて評価が高く、特に有名なゴジラのテーマは後のゴジラ映画にも受け継がれている。
伊福部は後にこのゴジラのテーマを織り込んだ管弦楽曲「SF交響ファンタジー第一番」を作曲している。
本作は、1953年に円谷英二が企画部に提出していた「海から現れた怪物(円谷のイメージでは大ダコだったという)が東京を襲う」という特撮映画のプロットがまず起案にあり、この企画を田中友幸が巨大怪獣に置き換え、翌1954年に企画会議で上層部へ提出したものである。
田中は、同年アメリカで公開された映画『原子怪獣現わる』(日本では1954年12月公開)の内容を聞きつけ、これに世界唯一の被爆国という立場と第五福竜丸の被爆という当時の情勢を加味して焼き直したとされている。
内容を聞いた東宝上層部は、「到底撮影は無理」として満場一致で反対したが、森岩雄ただ一人がこの企画に賛成意見を述べ、強硬に支持し、ついにはGOサインにこぎつけたという経緯がある。
「ゴジラ」という名前の由来については、田中友幸によれば「当時東宝演劇部に“「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌”の網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物がおり、彼のあだ名が「グジラ」だったので、それを参考に「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした」ということである(数あるシナリオの中には「ゴヂラ」と表記されたものもある)。
前代未聞の企画に臨み、当初本企画は「G作品」と銘打たれ、極秘裏に進行された。
一方で、監督の本多猪四郎は制作に当たり、「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」という演出姿勢を貫き、単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を当作品に持たせている。
第五福竜丸の被曝事件のみならず、菅井きん演じる女性議員や戦災遺族、疎開、本作の2年前に警察予備隊から再編成された自衛隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトが織り込まれている。
当時の政界では造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時期であった(この年、第5次吉田内閣は退陣する)。
そのような時代背景か、助監督として参加した梶田興治によると、ゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたと語っている。
東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた完成試写では、その本編・特撮の出来栄えのあまりのよさに場内総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかったという。
そんな中、原作者の香山滋は、ラストシーンでゴジラがオキシジェン・デストロイヤーによって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、一人座っったまま感極まって泣いていたという。
主演の宝田明もゴジラにシンパシーを感じたと後に語っており、映画公開後には観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラが可哀想だ」という抗議の声があったという。
当時としては類を見ないヒットと観客動員数を記録し、国民のほぼ10人に1人はこの映画を見たことになる。
後のシリーズでも「本作を超えるゴジラは無い」とまで言われるほどで、本作の「続篇」とされる映画が複数存在している。
また、手塚治虫、淀川長治など本作を絶賛する著名人も多数いる。
なお、手塚治虫は晩年に新作ゴジラのストーリー公募に最終選考者として参加している(このときに応募されたストーリーの一編がゴジラシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』の原案となった)。
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